阪神で被災した時、私の家は古い文化住宅だったので全壊した。
1階だったけれど、とても人の入れる隙間は無く、助け出されたのはいっぱい、いい偶然が重なったからだと思っている。
お隣と向かいの人たちは亡くなった。
その時、私はお金なんか持ち出せなかった。
店が開いても物を買うことが出来なかった。
私も妹も我慢したけれど、入院中の母に必要な物とか、犬に必要な物は手に入れられなかった。
神戸市がお金を貸してくれるというのを聞いて借りに行ったけれど、保証人が要ると言うことで結局借りることが出来なかった。
その時も思ったし、今回も思う。
規則とか、公平にとか言う前に、当座の生活費を出してほしい。
ご近所も友人もそれぞれに被災をしていて、お互いに融通し合うには時間がいる。
とても必要とする時には間に合わない。
本当に困っている人が居るはずなので、もっと柔軟な考えで早く出してほしいと強く思う。
2011年04月06日
2011年03月21日
救援物資
神戸で私が避難生活をしていた時、救援物資が来たけれど、偏っていたように思う。
衣服は、そんなにいっぱいあっても洗濯出来ないし、置く所も無いので結構余っていたように思う。
洗濯出来ないという理由で、下着はありがたかった。
ただ、ブラジャーは無かったわね。
私は胸が大きい方なので、結構しんどかった。
それから、母に大人用のおむつを使っていたけれど、そういう物は来ないので、なるべく替えないようにして、生理用パットや、赤ちゃんのおむつを中に使って、それを替えてしのいでいた。
あとは、うちのワンコがドックフードを食べないので、猫用の缶詰をいっぱいもらったな。
お金は、友人がを援助してくれるまで持ってなかったので、物が買えなかったのでとてもありがたかった。
衣服は、そんなにいっぱいあっても洗濯出来ないし、置く所も無いので結構余っていたように思う。
洗濯出来ないという理由で、下着はありがたかった。
ただ、ブラジャーは無かったわね。
私は胸が大きい方なので、結構しんどかった。
それから、母に大人用のおむつを使っていたけれど、そういう物は来ないので、なるべく替えないようにして、生理用パットや、赤ちゃんのおむつを中に使って、それを替えてしのいでいた。
あとは、うちのワンコがドックフードを食べないので、猫用の缶詰をいっぱいもらったな。
お金は、友人がを援助してくれるまで持ってなかったので、物が買えなかったのでとてもありがたかった。
2011年03月13日
動物たちは?
テレビを見ていると、頭も身体も震災モードに入ってしまう。
なのに外へ出ると、今日は日曜日で暖かいし、のんびりと散歩したりジョギングしたりする人が目に入る。
その差がすんなりと受け入れられなくて、ちょっと苦労をしている。
それから、そんなこと考えている時ではないのだろうけれど、飼われていた動物たちはどうなったのかしら?
なのに外へ出ると、今日は日曜日で暖かいし、のんびりと散歩したりジョギングしたりする人が目に入る。
その差がすんなりと受け入れられなくて、ちょっと苦労をしている。
それから、そんなこと考えている時ではないのだろうけれど、飼われていた動物たちはどうなったのかしら?
2011年03月12日
地震
きのうは晩の8時前まで知らなかった。
テレビを見て地震があったの!と、妹に驚いて言った。
揺れたのに気がつかなかったの?!と、反対に驚かれる。
その時間、古い友人が訪ねて来て、神戸の地震の話をしていた。
揺れなんて全然感じなかったし、来ていた生徒さんも何にも言わなかった。
あの日、病院の窓から旅客機が飛んでいるのを見て、世界が終わったように思っていたのに普通の生活があるなんて!と、とても驚いた。
今日は、テレビを見ていてえらい事になったと思っていたのに、犬の散歩に出掛けると、普通の生活があるし、自分も普通に行動している事に驚いた。
同期するのに少し時間がかかってしまった。
そして、頑張れと言われるのがとても嫌だったことを思い出しました。
被災に遭われたみなさん。頑張らないで。
毎日を無事に過ごすことだけを考えて。
亡くなられた方には心からお悔やみ申し上げます。
テレビを見て地震があったの!と、妹に驚いて言った。
揺れたのに気がつかなかったの?!と、反対に驚かれる。
その時間、古い友人が訪ねて来て、神戸の地震の話をしていた。
揺れなんて全然感じなかったし、来ていた生徒さんも何にも言わなかった。
あの日、病院の窓から旅客機が飛んでいるのを見て、世界が終わったように思っていたのに普通の生活があるなんて!と、とても驚いた。
今日は、テレビを見ていてえらい事になったと思っていたのに、犬の散歩に出掛けると、普通の生活があるし、自分も普通に行動している事に驚いた。
同期するのに少し時間がかかってしまった。
そして、頑張れと言われるのがとても嫌だったことを思い出しました。
被災に遭われたみなさん。頑張らないで。
毎日を無事に過ごすことだけを考えて。
亡くなられた方には心からお悔やみ申し上げます。
2011年01月16日
お風呂
最近はほとんど何にも考え無くなったけれど、震災の日が近づくと、何かと思い出す事がある。
きのうの夜は、風呂に入りながら自衛隊の仮設の風呂を思い出した。
テントで出来ていて、中に入ると土間みたいな所に仮棚があって、その上の脱衣かごが乗っていた。
ビニールシートで(多分ね。妹に聞いてももう忘れている。)風呂場と仕切られていた。
入ってすぐの所にパイプがあってシャワーになっていた。
その奥が風呂になっていて、いつもたくさんの人が入っていた。
私が入りに行くのはいつも夜なので、中はかなり暗くて奥の人なんか見え難くかった。
それでも湯の上に垢が浮いているのは見えた。
なので、湯の出てくるパイプの側になるべく行こうとしたけれど、思いはみんな同じでその場所は人が多かった。
上がり湯のかけ湯の替わりにシャワーをして上がろうと思っても(3個くらいあったかな?)水が出るのが2個だけで、それもちょろちょろと出るだけだ。
みんなでそれを順番に譲り合って使っていた。
そんなお風呂でも、寒い中をいっぱい並んで、やっと入れた時にはとても気分がよく、帰りはほっかほっかとした気分になっていた。
なんだかなぁ。
そんな経験をしたんだ。
それにみんなやさしかったなぁ。
きのうの夜は、風呂に入りながら自衛隊の仮設の風呂を思い出した。
テントで出来ていて、中に入ると土間みたいな所に仮棚があって、その上の脱衣かごが乗っていた。
ビニールシートで(多分ね。妹に聞いてももう忘れている。)風呂場と仕切られていた。
入ってすぐの所にパイプがあってシャワーになっていた。
その奥が風呂になっていて、いつもたくさんの人が入っていた。
私が入りに行くのはいつも夜なので、中はかなり暗くて奥の人なんか見え難くかった。
それでも湯の上に垢が浮いているのは見えた。
なので、湯の出てくるパイプの側になるべく行こうとしたけれど、思いはみんな同じでその場所は人が多かった。
上がり湯のかけ湯の替わりにシャワーをして上がろうと思っても(3個くらいあったかな?)水が出るのが2個だけで、それもちょろちょろと出るだけだ。
みんなでそれを順番に譲り合って使っていた。
そんなお風呂でも、寒い中をいっぱい並んで、やっと入れた時にはとても気分がよく、帰りはほっかほっかとした気分になっていた。
なんだかなぁ。
そんな経験をしたんだ。
それにみんなやさしかったなぁ。
2008年01月08日
震災の日が近くなる
1月17日が近づくと、誰かしら、地震のことを話しだす。
今日は、犬仲間のチャチャちゃんのお父さんが話した。
いつも散歩に行く王子公園のグランドは、自衛隊の基地だったようだ。
今は、フットボール場になっている。
天皇陛下も、その他の視察に行く人も、ここからヘリコプターで出掛けたらしい。
毎日、大きなヘリコプターがすごい音で飛んでたんやで、って。
(それを聞いて、空気が振動するヘリコプターの爆音を思い出した。
避難所の教室の窓ガラスが、ビリビリと振動していた。
あのヘリコプターの音で、家の下に埋もれた人の声が聞こえなくて、助けられなかった人が居た、ということまで思い出した。)
それから、お父さんは、毎日自衛隊員が、スコップを持って、救助に出掛けたんや、って言った。
(そうだった。お隣も夕方に自衛隊の人が来て、やっと出してもらえたけれど、間に合わずに亡くなったんだ。)
わたしは灘のその時の状況を知らない。
今私が住んでいる所は、区役所になる予定の所だったらしい。
予定を変えて、住宅に変更したようだ。
阪急の駅のエレベーターも、予算が無くなって、取り付けられなくなったようだ。
地震でいろいろと変更が行われた。
そして、趣きは無くなったけれど、見かけはきれいな街になった。
地震を知らない子供達も大きくなってきた。
普通の生活が普通に送れるようになった。
だけど、色んな問題が先送りされたようで、本当に復興したのかな?と、考えている今日です。
今日は、犬仲間のチャチャちゃんのお父さんが話した。
いつも散歩に行く王子公園のグランドは、自衛隊の基地だったようだ。
今は、フットボール場になっている。
天皇陛下も、その他の視察に行く人も、ここからヘリコプターで出掛けたらしい。
毎日、大きなヘリコプターがすごい音で飛んでたんやで、って。
(それを聞いて、空気が振動するヘリコプターの爆音を思い出した。
避難所の教室の窓ガラスが、ビリビリと振動していた。
あのヘリコプターの音で、家の下に埋もれた人の声が聞こえなくて、助けられなかった人が居た、ということまで思い出した。)
それから、お父さんは、毎日自衛隊員が、スコップを持って、救助に出掛けたんや、って言った。
(そうだった。お隣も夕方に自衛隊の人が来て、やっと出してもらえたけれど、間に合わずに亡くなったんだ。)
わたしは灘のその時の状況を知らない。
今私が住んでいる所は、区役所になる予定の所だったらしい。
予定を変えて、住宅に変更したようだ。
阪急の駅のエレベーターも、予算が無くなって、取り付けられなくなったようだ。
地震でいろいろと変更が行われた。
そして、趣きは無くなったけれど、見かけはきれいな街になった。
地震を知らない子供達も大きくなってきた。
普通の生活が普通に送れるようになった。
だけど、色んな問題が先送りされたようで、本当に復興したのかな?と、考えている今日です。
2007年03月26日
地震のお見舞い
地震の被害にあった地区の方々、お見舞い申し上げます。
これから大変な事が続きますが、元気を出して、乗り切ってください。
それから、神戸の地震の時に、お年寄りが精神的に崩れて、そのまま身体を壊していくのを見ました。
話を聞いてあげるだけでも、ずいぶんと違うと思います。
どうぞ、いたわってあげてください。
頑張ってくださいとは言いません。頑張れませんでしたから。
乗り切ってくださいと言います。
これから大変な事が続きますが、元気を出して、乗り切ってください。
それから、神戸の地震の時に、お年寄りが精神的に崩れて、そのまま身体を壊していくのを見ました。
話を聞いてあげるだけでも、ずいぶんと違うと思います。
どうぞ、いたわってあげてください。
頑張ってくださいとは言いません。頑張れませんでしたから。
乗り切ってくださいと言います。
2007年01月17日
私の手
私の手の麻痺は、数日して、他の医師達が戻って来てから、整形外科の医師に見てもらえた。
上腕の筋肉が挫滅しているので、麻痺したままかもしれないと言われたが、リハビリと、年月が元の状態に近く戻してくれた。
麻痺した左手に、新しく学習させたけれど、今だに右手と、左手の、物を触った感覚が違うのだ。
でもまあ、仕事が出来るから、良しとしている。
上腕の筋肉が挫滅しているので、麻痺したままかもしれないと言われたが、リハビリと、年月が元の状態に近く戻してくれた。
麻痺した左手に、新しく学習させたけれど、今だに右手と、左手の、物を触った感覚が違うのだ。
でもまあ、仕事が出来るから、良しとしている。
2007年01月16日
1月17日 あの日
何人かが、どうしたん?と聞いた。
家の下敷きになった。と、答えた。
病室に居た患者の付き添いさんが、慌てて来てくれて、私を母の横の付き添い用ベッドに連れて行ってくれた。
早う、横になり。そう言ってくれた。
疲れた私は、すぐに、横になった。
付き添いさんが母に、怪我をしてるから、そっと寝かしといてあげてね。と言っているのが聞こえた。
なんか食べたん?と、隣の足を骨折して入院中の女の子が聞いた。
食べてないと言うと、残っていた、小さな丸いパンをくれた。
私がそんな事をしている間、妹は、私の搬送先が解らなくて、探していた。
まず、西市民病院に行った。4階が潰れて、ニュースになった病院だ。
忙しく処置中の看護婦さんに、運ばれた人は何処かと聞くと、忙しいので自分でその辺を探してくださいと、きつい声で言われた。
廊下に探しに出ると、黒い袋に包まれて、胸に荷札のようなものを付けた遺体が、たくさん並んでいた。
それを見て、妹は、母の居る病院に戻って来た。
そして、私と会った。
その晩、外の騒がしい車の音と、誘導する警官の大きな声を聞きながらベッドに横になっていると、飛行機が、まあるい月を横切って行くのが見えた。
今のこの、地球崩壊かと思う状況とそぐわなくて、私は軽いショックを受けた。普通の生活があるんだ。。。
アンリ・ルソーの絵ような極彩色の夢を見た。
南の孤島で、海の方を向いて、木に左腕をかけている立っている、後ろ姿の男性が私。
足元に、亀が居た。
今まで一度も見た事が無い程、鮮やかな色彩だった。
家の下敷きになった。と、答えた。
病室に居た患者の付き添いさんが、慌てて来てくれて、私を母の横の付き添い用ベッドに連れて行ってくれた。
早う、横になり。そう言ってくれた。
疲れた私は、すぐに、横になった。
付き添いさんが母に、怪我をしてるから、そっと寝かしといてあげてね。と言っているのが聞こえた。
なんか食べたん?と、隣の足を骨折して入院中の女の子が聞いた。
食べてないと言うと、残っていた、小さな丸いパンをくれた。
私がそんな事をしている間、妹は、私の搬送先が解らなくて、探していた。
まず、西市民病院に行った。4階が潰れて、ニュースになった病院だ。
忙しく処置中の看護婦さんに、運ばれた人は何処かと聞くと、忙しいので自分でその辺を探してくださいと、きつい声で言われた。
廊下に探しに出ると、黒い袋に包まれて、胸に荷札のようなものを付けた遺体が、たくさん並んでいた。
それを見て、妹は、母の居る病院に戻って来た。
そして、私と会った。
その晩、外の騒がしい車の音と、誘導する警官の大きな声を聞きながらベッドに横になっていると、飛行機が、まあるい月を横切って行くのが見えた。
今のこの、地球崩壊かと思う状況とそぐわなくて、私は軽いショックを受けた。普通の生活があるんだ。。。
アンリ・ルソーの絵ような極彩色の夢を見た。
南の孤島で、海の方を向いて、木に左腕をかけている立っている、後ろ姿の男性が私。
足元に、亀が居た。
今まで一度も見た事が無い程、鮮やかな色彩だった。
1月17日 あの日
忘れていて、こっそりと過ぎて行くかと思ったけれど、駄目だ。
落ち着かない気分になって、いろんな事が思い出されてしまう。
だから、書いてみよう。
連れて行ってもらった病院の廊下は、水浸しだった。
11時を過ぎているのに電気も消えて、薄暗く、寒かった。
壊れた薬瓶から漏れた薬品の、強い刺激臭もしていた。
水浸しの廊下に、マットが敷いてあって、たくさんの人が坐っていた。そんないっぱいの中に救急車が来て、人を運び込んだ。何回も。
診察室を覗いてみると、頭から血を流した人が、手当をしてもらっていた。院長が、手当の必要な人から先に見る、と、強く言っていた。
医師は、院長しか居なかった。
私の麻痺している手は、当分見てもらえそうにない。
待合室に行ってみた。そこも人でいっぱいだった。
電気が消えて、暗く、寒かったけれど、廊下ほど水浸しではなかった。
私は、パジャマの上に姉のオーバーを羽織って、寝ていた時の毛布を身体に巻き付けていた。
そんな格好で、空いていたソファの上に座り込んだ。
玄関の近くにあった自動販売機が倒れていて、その上に外国人が寝かされていたけれど、大きな声で叫び続けていた。
院長が入って来て、順番に皆の身体の状態を見て回った。
暗い部屋の隅に、家族と思われる数人が座っていた。男性が寝かされていた。院長が、この人は死んでいると言っているのが聞こえた。
次の人の方に向かって歩き出すと、妻と思われる女性が、そんな事無い、もっと見て、と訴えた。もう駄目だと、院長が言って、次に移った。女性は、もっと見てと、もっと見てと、ずっと言い続けていた。
私は、指が動くかと聞かれて、動かないと答えた。そうか、と言って、通り過ぎてしまった。
少し待ったけれど、何の手当もしてもらえないようだ。
腕を骨折した人を診察室に連れて来るようにと、看護婦に言っていた。
仕方が無いので、母の病室に上がって行った。
そこは、暗くても、清潔だった。そんな入り口に、泥だらけの私が立った。
皆の驚いた目がこちらを見た。
落ち着かない気分になって、いろんな事が思い出されてしまう。
だから、書いてみよう。
連れて行ってもらった病院の廊下は、水浸しだった。
11時を過ぎているのに電気も消えて、薄暗く、寒かった。
壊れた薬瓶から漏れた薬品の、強い刺激臭もしていた。
水浸しの廊下に、マットが敷いてあって、たくさんの人が坐っていた。そんないっぱいの中に救急車が来て、人を運び込んだ。何回も。
診察室を覗いてみると、頭から血を流した人が、手当をしてもらっていた。院長が、手当の必要な人から先に見る、と、強く言っていた。
医師は、院長しか居なかった。
私の麻痺している手は、当分見てもらえそうにない。
待合室に行ってみた。そこも人でいっぱいだった。
電気が消えて、暗く、寒かったけれど、廊下ほど水浸しではなかった。
私は、パジャマの上に姉のオーバーを羽織って、寝ていた時の毛布を身体に巻き付けていた。
そんな格好で、空いていたソファの上に座り込んだ。
玄関の近くにあった自動販売機が倒れていて、その上に外国人が寝かされていたけれど、大きな声で叫び続けていた。
院長が入って来て、順番に皆の身体の状態を見て回った。
暗い部屋の隅に、家族と思われる数人が座っていた。男性が寝かされていた。院長が、この人は死んでいると言っているのが聞こえた。
次の人の方に向かって歩き出すと、妻と思われる女性が、そんな事無い、もっと見て、と訴えた。もう駄目だと、院長が言って、次に移った。女性は、もっと見てと、もっと見てと、ずっと言い続けていた。
私は、指が動くかと聞かれて、動かないと答えた。そうか、と言って、通り過ぎてしまった。
少し待ったけれど、何の手当もしてもらえないようだ。
腕を骨折した人を診察室に連れて来るようにと、看護婦に言っていた。
仕方が無いので、母の病室に上がって行った。
そこは、暗くても、清潔だった。そんな入り口に、泥だらけの私が立った。
皆の驚いた目がこちらを見た。
2006年03月06日
仮設に向かって
6月のはじめに、仮設に移った。
避難所に、キラキラと電飾を輝かせたトラックがやって来た。
その日に先立って、友人が家具をくれるといった。
ベッドと、電化製品、サイドボードなどだ。
仮設を見に行って、サイドボードなどの家具は立派すぎて、入らないことが判った。
母の為にベッドだけを貰うことにした。
ボランティアの人に、ベッドを運びますと言った為に、きらびやかなトラックがやって来たらしい。
そのベッドも、母の入院している病院と相談したら、介護用が必要だと言うことで、要らない事になった。
その日、助手席に妹が乗り、広々とした荷台には、いつの間にか増えた荷物と、手伝いに来てくれた友人と私の生徒、そして犬と私が乗った。
ドンは、高速を通る間、荷台から落ちそうなくらい身を乗り出して、すれ違う車を見つめていた。
私は彼をしっかりと掴んでいた。
避難所に、キラキラと電飾を輝かせたトラックがやって来た。
その日に先立って、友人が家具をくれるといった。
ベッドと、電化製品、サイドボードなどだ。
仮設を見に行って、サイドボードなどの家具は立派すぎて、入らないことが判った。
母の為にベッドだけを貰うことにした。
ボランティアの人に、ベッドを運びますと言った為に、きらびやかなトラックがやって来たらしい。
そのベッドも、母の入院している病院と相談したら、介護用が必要だと言うことで、要らない事になった。
その日、助手席に妹が乗り、広々とした荷台には、いつの間にか増えた荷物と、手伝いに来てくれた友人と私の生徒、そして犬と私が乗った。
ドンは、高速を通る間、荷台から落ちそうなくらい身を乗り出して、すれ違う車を見つめていた。
私は彼をしっかりと掴んでいた。
2006年03月02日
2006年02月27日
避難所生活
母は入院した直後に、トイレの場所が解らなくなって転倒し、腕を骨折した。
その時2、3日、私と妹が交代で付き添った。
その後、病院に任せきりになり、食事時間に顔を出すだけになった。
犬と居る時間が増えた。
朝は6時に起きて、散歩に行った。
みんな早起きだった。
夜は、6時までに散歩を済ませた。
周りが廃墟と呼ぶのにふさわしくなっていて、遅い時間になると気味が悪かった。
その間に仕事に行き、何となく生活のリズムが出来た。
しかし、何かを自分から仕掛けても、結果のでない日々が続き、苛立も募った。
ただ待つと言う事が、私の性格ではかなり苦しかった。
その時2、3日、私と妹が交代で付き添った。
その後、病院に任せきりになり、食事時間に顔を出すだけになった。
犬と居る時間が増えた。
朝は6時に起きて、散歩に行った。
みんな早起きだった。
夜は、6時までに散歩を済ませた。
周りが廃墟と呼ぶのにふさわしくなっていて、遅い時間になると気味が悪かった。
その間に仕事に行き、何となく生活のリズムが出来た。
しかし、何かを自分から仕掛けても、結果のでない日々が続き、苛立も募った。
ただ待つと言う事が、私の性格ではかなり苦しかった。
2006年02月20日
2006年02月16日
仮設が建った
ドンと散歩に行っていた、会下山と新開地の公園に仮設が建った。
年寄りが居るから、当たって欲しいと念じながら、うちの家族も申し込んだ。
残念ながら当たらなかった。
兵庫区が駄目だったので、次は中央区に申し込んだ。
中央区もことごとく外れた。
そして、須磨区、垂水区と、だんだん遠くに申し込んだ。
やっと垂水区に当たるのは、まだまだずーっと先の事だ。
そんな訳で、会下山や新開地に散歩に行くと、散歩場所が狭くなったと、私は怒っていた。
ドンはそんな事は関係なく、私達と一緒だと嬉しそうだった。
それに、彼は毎年、何かしら病気をしていたのに、不思議な事にあの年は、何の病気もしなかった。
年寄りが居るから、当たって欲しいと念じながら、うちの家族も申し込んだ。
残念ながら当たらなかった。
兵庫区が駄目だったので、次は中央区に申し込んだ。
中央区もことごとく外れた。
そして、須磨区、垂水区と、だんだん遠くに申し込んだ。
やっと垂水区に当たるのは、まだまだずーっと先の事だ。
そんな訳で、会下山や新開地に散歩に行くと、散歩場所が狭くなったと、私は怒っていた。
ドンはそんな事は関係なく、私達と一緒だと嬉しそうだった。
それに、彼は毎年、何かしら病気をしていたのに、不思議な事にあの年は、何の病気もしなかった。
2006年02月09日
犬を食べるって!
何カ所かある公園には、テント生活をしている人達が居た。
そんな中に、東南アジア系の人たちが集まっている場所があった。
地震の前には、四角い穴の空いたコンクリート塀で、ドンとかくれんぼをして遊んだ場所だ。
多分、多分、間違いなく冗談だと思うけれど、その場所をドンと通った時に、「旨そうな赤犬だな」と言われた。
確かに彼は、ネルソン程ではないが、赤い。日が当たると、金茶色に光っていた。
でも、食べるって!! 冗談じゃない!!
それ以後、その場所に近寄るのは止めた。
日本語で言われたし、冗談だとは思うけれど、あんまり食べる物がなかったので、わたしは心配だった。
そんな中に、東南アジア系の人たちが集まっている場所があった。
地震の前には、四角い穴の空いたコンクリート塀で、ドンとかくれんぼをして遊んだ場所だ。
多分、多分、間違いなく冗談だと思うけれど、その場所をドンと通った時に、「旨そうな赤犬だな」と言われた。
確かに彼は、ネルソン程ではないが、赤い。日が当たると、金茶色に光っていた。
でも、食べるって!! 冗談じゃない!!
それ以後、その場所に近寄るのは止めた。
日本語で言われたし、冗談だとは思うけれど、あんまり食べる物がなかったので、わたしは心配だった。
2006年02月08日
一頭で留守番
避難所にしている教室も、移って行ける人は何所かへ移動し、顔ぶれも一定になった。それで、犬を一頭で留守番させてみる事にした。
教室なので、机や椅子があった。それで簡単なバリケードを作り、毛布を上にかぶせて、何処からも見えない所を作った。入り口になる所も毛布を垂らして、犬の身体が入れる様にした。簡易犬小屋を造ったのだ。
同室の、マルチーズを連れている人に、見てくれるように頼んで、まず、病院に連れて行かない事にした。
妹と入れ替わりに、避難所に行ってみると、彼は大人しく簡易犬小屋の前で寝そべっていた。
私が部屋に入ると、素早く感知したらしく、オコジョのように、机越しに顔を出した。そしてなんとも嬉しそうな顔をした。
同室の人も、大人しく留守番をしていたと言ってくれた。
それに簡易犬小屋の中で寝る事も覚えた。
私達は、短い時間、彼を置いて仕事に行けるようになった。
教室なので、机や椅子があった。それで簡単なバリケードを作り、毛布を上にかぶせて、何処からも見えない所を作った。入り口になる所も毛布を垂らして、犬の身体が入れる様にした。簡易犬小屋を造ったのだ。
同室の、マルチーズを連れている人に、見てくれるように頼んで、まず、病院に連れて行かない事にした。
妹と入れ替わりに、避難所に行ってみると、彼は大人しく簡易犬小屋の前で寝そべっていた。
私が部屋に入ると、素早く感知したらしく、オコジョのように、机越しに顔を出した。そしてなんとも嬉しそうな顔をした。
同室の人も、大人しく留守番をしていたと言ってくれた。
それに簡易犬小屋の中で寝る事も覚えた。
私達は、短い時間、彼を置いて仕事に行けるようになった。
2006年02月01日
物を拾う
何も持っていないので、いろんな物を拾った。
いつも散歩に行っていた会下山に行く途中に、陶器の卸屋さんがあった。
前を通ると、ここも1階が潰れて、車が車庫で、2階に押し潰されているのが見えた。
そして、陶器が散乱していた。
壊れていない物は、店の人に整理され、欠けた物が残されていた。
私は、今は要らないけれど、いつかコーヒーをいれる時のためにと思って、コーヒーのドリッパーを拾った。ふちが少し欠けていた。
ドンと一緒に拾った思い出もあり、捨てがたく、今も使っている。
同室の人も、食事のためにと、欠けた食器を拾って来ていた。
それから、大きな鍋も拾った。
これは、犬が散歩した後、部屋に入る前にからだを拭くためだった。
お湯も無く、冷たかったけれど、公園か、校舎の水道でからだを拭いた。
ドンもそれが当たり前と思っていたようだった。
その鍋は散歩の時に持って歩いた。
私達は、だんだんと難民になっていった。
いつも散歩に行っていた会下山に行く途中に、陶器の卸屋さんがあった。
前を通ると、ここも1階が潰れて、車が車庫で、2階に押し潰されているのが見えた。
そして、陶器が散乱していた。
壊れていない物は、店の人に整理され、欠けた物が残されていた。
私は、今は要らないけれど、いつかコーヒーをいれる時のためにと思って、コーヒーのドリッパーを拾った。ふちが少し欠けていた。
ドンと一緒に拾った思い出もあり、捨てがたく、今も使っている。
同室の人も、食事のためにと、欠けた食器を拾って来ていた。
それから、大きな鍋も拾った。
これは、犬が散歩した後、部屋に入る前にからだを拭くためだった。
お湯も無く、冷たかったけれど、公園か、校舎の水道でからだを拭いた。
ドンもそれが当たり前と思っていたようだった。
その鍋は散歩の時に持って歩いた。
私達は、だんだんと難民になっていった。
2006年01月23日
1995年 地震
妹が避難場所に選んだ所は、会下山小学校の2階の教室だった。
私が行った時、床に赤十字から貰った毛布を敷いて、場所を確保していた。
周りも、毛布か布団の違い位で、だいたい似たような感じだった。
選んだ場所は、教壇の近くの廊下側だった。水槽が壊れて亀が飛び出したのを、妹が保護していた。
数日後、その教室の担任の先生が見えた時に渡した。
湿って、暗くて、余震の度に天井の亀裂が大きくなるような気がして、恐かった。
そんな所に犬だけ置いておく事が出来ず、いつも一緒に行動した。
いろんな所に、長時間、寒い思いをして、犬も一緒に並んだ。
公共の知らせは、いつも突然口コミで入り、母の世話を、同室の人と看護婦さんに頼んで出かけた。
長い行列になり、1時間位はいつも並んだ。
私が行った時、床に赤十字から貰った毛布を敷いて、場所を確保していた。
周りも、毛布か布団の違い位で、だいたい似たような感じだった。
選んだ場所は、教壇の近くの廊下側だった。水槽が壊れて亀が飛び出したのを、妹が保護していた。
数日後、その教室の担任の先生が見えた時に渡した。
湿って、暗くて、余震の度に天井の亀裂が大きくなるような気がして、恐かった。
そんな所に犬だけ置いておく事が出来ず、いつも一緒に行動した。
いろんな所に、長時間、寒い思いをして、犬も一緒に並んだ。
公共の知らせは、いつも突然口コミで入り、母の世話を、同室の人と看護婦さんに頼んで出かけた。
長い行列になり、1時間位はいつも並んだ。